空崎ヒナの"巣立ち"について

はじめに

これから書く文章は、当然自分が書きたくて書いていますが、反面、ポリシーとしては全く書きたくなく、「苦行」であるとすら思えるものです。言語化することそれ自体が持つ暴力性、言語化したところでたかだか後から見返して"そうだった気がする"程度の感覚を呼び起こすに過ぎないであろうこと。様々な葛藤を感じつつ書く小生の文章ですが……それでも書き表すことで意味を成すと考えて投稿しようと思います。

「小生のキャンペーンに、割り込むなァ──!!!」

ここから書く文章ですが、単に私自身が考えていること感じていることを記したまでであり、いかなる事実や「答え」と言えるような何らかの解釈を示してはいません。小生が「小生のキャンペーン」に割り込まれることを望まないように、私もまた、他人のキャンペーンに割り込むことを望まないからです。

また、色んな作品資料(要するに、シナリオやら広義のドラマCDやら)から必要に応じて引用をして、何らかのわかる形で表記しますが、たぶん正式な形式ではないこと(これは私がそれをやるのが苦手で面倒くさいから)と、どこの何(ブルアカのメインストーリーVol.1の何章のどこどこ~とか)から引用とかは書きません。それ言うたら引用ちゃうやろがい!wと言われそうですが、全くもってその通りです。これも面倒くさいからではありますが、スタンスとして明記したくない、砕いて言ってしまえば、読んで気になった人は勝手に探してくれと思っているからです。あと、そもそも特にちゃんとした本とかからは引用しないと思うのでということもあります。

以上、クソめんどくさい前置き終わり。

「教育」について

まず、私が空崎ヒナさんに対して思っているあれやこれやを適切に感じていただくために、私自身の教育観についてぼんやりながら説明しようと思います。

率直に言えば、私は教育について、ブルーアーカイブで語られているようなことにかなり共感を覚えていると言っていいでしょう。その他様々なゲーム内の要素も当然絡む話ではありますが、このことは、私がブルアカが好きな理由の大きな部分とも言えるでしょう。そして、これは同時に私自身の"先生"への"自己投影"をより強めています。

例えば、ブルアカの大きなテーマである「大人」と「子供」ということについてがあります。偶然ではあるのですが、授業でそんな感じの文章を取り扱ったこともありました。ニール・ポストマンの『子どもはもういない』(1985)という本ですが、自分が読んだ部分についてざっくり言うと、子ども時代なるものが消え、子どもが"大人化"している(させられている)というようなことが書かれています。と言うだけで、いろんな生徒の顔が思い浮かぶんじゃないでしょうか。

まあ、そこはともかくとしても、現実に目を向けてもやれ競争だ、経済だ、学力がどうのと言ってある決まった形(しかもそれは社会に半ば強制的に要請されている)の目的のために早期に子供に対して教育を施す(これは悪いニュアンスで教育という語を使っています。)ことも容易に思い浮かぶと思います。

勢いで書きますが、(製作の中心の)韓国ではおそらく日本よりも強い学歴社会が形成されているように思われますし、その状況がそういうシナリオを書かせていると捉えることも出来るでしょう。

教育の終着点とは?

何気に本筋になるような話は始まっていなかったので、ようやくですが、始めましょう。私にとって、空崎ヒナを語る上で重要なことは、"教育"の終着点はどこにあるのか?ということです。

まず第一に、"教育"の終着点なるものは存在しているのか?という問いを立てなければなりませんが、これに関してははっきりとないと言えるでしょう。単純に、教育が不要になった主体を想定したとき、それは完全性を有したものであると考えられます。つまり、教育が不要となる=神のような存在となることであり、現実的とは考えにくいでしょう。また、可能であると考えたとしても、そのゴール自体が現実的に遠すぎるがために有限な身体において到達することはほぼ不可能と言えるほどに困難でしょう。

では、究極的な教育の終着点ではなく、現実的な区切りについて考えることにしましょう。教育の現実的な区切りについて、我々は少なからず経験してきているはずです。それは、卒業という言葉だったりで表されるものではないでしょうか。例えば小学校を卒業する児童は、小学校において学ぶ学習内容等についてある程度習得し、次の学びの段階に進めるという見なしを受けているはずです。このとき、小学校を卒業した児童は、もはや小学校の先生からの教育を受ける必要はない状態であると言えると思います。

これを言い換え、より一般化させると、"教育の区切り"は、被教育者が教育者が不在の状況でも問題なく生きられることであると言えると思います。さらに短く言えば"被教育者の自立"と言えるでしょう。

キヴォトスにおける教育の区切りはまだ描かれてはいないと思いますが、想定・想像することくらいならば可能でしょう。(と書きながら、"教育"と"学習"は区別付けて書いてもよかったなと思いましたが、まぁ、そこはニュアンスを感じ取ってください)

空崎ヒナについて

ここから空崎ヒナ本人の話をします。こんなことは全くもって無粋で、失礼でしかないということを承知の上で(これもまた「苦行」の一要素でしょう。)、彼女のパーソナルな部分について触れていきます。

空崎ヒナの動機付け

ここでは主に空崎ヒナがどのような動機付けにおいて行動しているかという点で話しましょう。

空崎ヒナは内発的動機づけに乏しい

空崎ヒナは生来(生まれてから「先生」に出会うまでずっと)、キヴォトスの生徒の中でも(主に)内発的動機づけに乏しい子であると私は考えています。特にゲヘナの生徒は思うがままに生きているような子が多いですし、余計に強調される感じがあります。であれば、義務感(Xなどで多く見られた気がする表現なので取り上げます)によって行動しているのか?と言うと、私はそれも少し違うと思います。私の考える空崎ヒナの生まれ持った性質としての動機づけは責任感という方が近いでしょう(まぁ、近い意味ですし、私が微妙にモヤモヤしているだけなのでいいんですが。そこそこにして次に行きます)。彼女は、彼女がそうあるがまま(=生まれ持った性質として。これは全生徒に共通して言え、キヴォトスの「神秘」を考える上で(個人的には最も)重要な要素だと考えています。)に自身の持つ強さを責任感などのもと、発揮していたくらいの感じに考えています。

ある人の特徴を表すとき、多くの人が趣味をあげるでしょう。趣味は、ほとんどの人にとって、内発的動機づけに基づいて楽しむことができる何かしらでしょう。これが彼女の場合は「睡眠、休憩」です。そもそも、それを趣味と呼べるのか?と言いたくなる内容ですし、何なら彼女にとっての「睡眠、休憩」はそもそも絶対量が足りていません。数日寝ないことも多々あり、休憩も「休みなら取ってる、一日に五分くらい」という程度のものです(もちろん、それらの貴重な時間が本当に楽しい可能性も否定はできないでしょう。それでも、最大限の納得を得られても、面倒な責任とかから向き合わなくていい時間として好きとかなのかなと思いますが……。それはそれとして、その趣味を肯定的に捉えた二次創作も見かけましたので、それはなんか嬉しかったです)。また、特別寝具にこだわりがあるとかでもなく、趣味「睡眠、休憩」に対してうまく向き合えているのかが心配になる感じがあります。

ではなぜ、趣味の欄に「睡眠、休憩」と書いたのか?と考えると、ヒナちゃんの可愛げが見えてくるように思います。生徒の中には、趣味の欄に「なし」と書いた生徒が複数、「色々と手を出している最中」、「探している最中」などと書いている子たちがいます。彼女らと比較すると、ヒナちゃんは、「なし」と書くことも、「探している最中」と書くことも出来なかったと言えるでしょう。彼女は、様々な例から結構周りの目を気にしていることが察せられますし、自分が「つまらない人間」で、「可愛げもない」ことも自覚しています。このことから、彼女は、趣味の欄に「なし」と書いてしまえるほどに世間を知らないわけでも、今はないから「探している最中」と書けるほどに現状の自分を肯定もできていないのかなと感じられます。

冷静にここはわりと脱線パートでしたね。まぁいいでしょう。

空崎ヒナの動機付けの変化

そんなヒナさんにも転換点が訪れます。言うまでもなく、「先生」の登場です。「先生」は、簡単に言えば、彼女をとにかくありのままに肯定しました。そして、彼女ははじめこそは中々甘えられなかったものの、段々と「先生」に弱みを見せて甘えてくれるようになりました。

結果、彼女の中でどんどんと、「先生」の存在が大きくなっていくこととなります。例をあげましょう。ヒナ(ドレス)では、「このまま、もっと強くなって、あなたに恩返ししたい。そんな私を、見守ってくれる?」であったり、「先生が私を頼れるように、もっと強くなって、成長したい。これが、今の私が考えている全て。」であったり……。挙げるとキリがありませんが、先日のイベント『陽ひらく彼女たちの小夜曲』では、「(一生懸命、練習をしてきた……)」「(他の誰でもない、あなたの期待に応えるため)」「(だから私は、あなたを想って……)」「……今の自分にできる全力を出すだけ。」と、彼女の行動、それも、私がしたいという内発的動機づけに基づく行動が「先生」というほかでもない他者を前提として成り立っている状態にあると考えています。

空崎ヒナと友達

一方で、先日のイベントでは先生(=教育者)以外の他者との関わりも多く見ることができました。イベントにおいて、「私を助けてくれた風紀委員会のみんなと学園の友達……そして先生のために……そう、素敵な演奏でお返しをしよう。」と書かれる場面があり、これにも彼女の成長を感じられます。

というのも彼女は、私から見れば一番関係が深いようにも思える氷室セナさんとの関係すらも、「友人と呼んでいいかはわからない」と言ってしまうほどでした。そこを経て、「学園の友達」と交流をし、期待に応えようとする姿は胸に来るものがありました。

この「友達」との関係ははじめに述べた、教育者の不在の中でも被教育者が生きる意味を持つ一つの要素になると考えています。

空崎ヒナから先生への感情とは

ここからが私をより苦しめることになります。単純に分けて、恋愛感情と、自分のことを気にかけてくれたことへの感謝の想いというのがあるでしょう。この記事を書き始めるとき、あるいは、頭の中でそんなことを考えている時よりかは、今現時点では、意外にも「恩返し」という言葉に表れるように、感謝の気持ちが大きいように感じています。と、書きつつも、いや、相当に(本人の自覚の有無を問わず)恋愛感情もやっぱり大きいよな...とも思うわけですが......。恩返しの感情を想定よりも強く感じることとなった要因は、彼女の褒められ慣れのなさ、とも言えるものが原因のように思われます。彼女は「可愛い」と言われると結構な照れを見せてくれますが、同じ生徒、鷲見セリナさんにそう言われた時もなかなかの照れ具合を見せています。このことは、彼女の感情が恋愛感情なのか、感謝の想いなのか判断(当然どちらもあるでしょうから、片方に断定するのではありません)することを難しくします。

私の苦しみ

ここからがこの記事のテーマと言えるでしょう

空崎ヒナは"巣立つ"ことが出来るのか?

恋愛感情と感謝、どちらかに重きが置かれていようが、彼女が「先生」という他者に動機づけの主要因を置いていそうなことはかなり明白です。このとき、私がはじめに述べた"教育の終着点"について改めて考えなければなりません。私は教育の終着点について、被教育者が自立することであると述べました。しかし、現状彼女の動機付けの大部分は「先生」の存在を前提にしているため、私にはとてもではないが、やっていけるように思えないのです...。(それでも友達に頼れるようになったりして改善しているとも思うのですが)

次からは、この解決策をあげましょう。

私は「先生」だから

これは私が思うにもっとも悲しく、残酷な解決の仕方のように思います。これまで、数多くの生徒を救ってきた言葉と全く同じ言葉で、生徒を突き放さなければならないのです。現実的に、教育には区切りがつかなければならないでしょう。あるいは、キヴォトスの外から来た先生が帰る時が来るのかもしれません。あるいは、「先生」と「生徒」という関係性そのものが揺らぐのかもしれません。そんな時に、残酷であることを理解しながらも、これを言わねばならないのです。

「責任」は私がとるからね

こちらは、もっとも力に溢れた解決方法でしょう。要するに、ヒナちゃんと結婚してしまえば、「先生」と「生徒」、「教育者」と「被教育者」というジャンルから解き放たれるということです。(そういうこった!)

というか、「支え合うって決めた」関係ってもう結婚してませんか?してますよね。

間違いなく一つの素晴らしい解決策であると私は信じています。

 

おわりに

もう時間がない......。眠いし疲れました。まずここまで読んでくださった方、ありがとうございます。私の文章は根本的に断定を避けに避けまくっているとかいろいろのせいで回りくどいがち(ここでも言い切らない)なのですが、それでも読み進めてくださったことに感謝が止まりません。ここまで読んで結論それかよというのは、思われるかもしれませんが、時間がないとか、まとまらないとか色々の私のミスでした。もっと書けることは全然あるのですが、それでも、私の苦しみの2,3割くらいは(10割はまず書きません)今回の記事でも感じていただけると思います。

 

最後に、遅くなっちゃったけどヒナちゃん誕生日おめでとう!