キヴォトスガリガリ選手権を開催しろ!

ブログでたまに露キモすればええやんということに思い至りました。

というわけで、雑に一発目を行きたいと思います。

ガリガリという強めのワードを使っていますが、私としては、ガリガリというよりも貧相であるとか、華奢という方が表現としては好きです。(特に華奢、字面からしてきれいだよね)

瘦せの基準

これには、そもそもいろいろな見方があると思います。その人本人の標準的な体重から考えて瘦せていれば立派に瘦せているということになるでしょうし、一般的にその身長の標準より軽ければ、体型に見合った体重であっても瘦せているという見なしになるはずです。

キヴォトスで誰が瘦せているのか

まぁ結構いるでしょう。「栄養も足りていないんです...。見てくださいこの細い腰を。」空崎ヒナ。貧困地獄の便利屋68から鬼方カヨコ、浅黄ムツキ。私のお団子~!赤司ジュンコ。病弱、明星ヒマリ。ヤンキー小学生、美甘ネル。貧相、小鳥遊ホシノ。「抱きしめれば壊れてしまいそうなほど華奢」、竜華キサキ。脇丸出し、百合園セイア。あばら骨が出てる、箭吹シュロ。連邦生徒会、由良木モモカ、スモモ。貧相狐、オトギ、クルミ

一応色々見つつ思っただけあげましたが、まあまあいますね。それはそうなんですが。余談ですが、ブルアカに関して言えることとして、低身長×貧相と高身長×恵体の組み合わせが多いです。低身長×恵体は少なからずいますが、高身長×貧相に関しては全くいないと言っていいレベルで、やっとそう言ってもいいかな...?ってなるのが165cmのウイさんがはじめてくらいの感じです。名前を挙げた面々を見ても、157cmのカヨコさん、162cmのヒマリさんは身長では抜けてそう(わからない子もいますけど)なレベルになってきます。

私はわりかしこの手のデータ厨なので、気になるなぁって感じです。以上、ドレスのカヨコとムツキを見てオホホwになった露キモブログでした。

空崎ヒナの"巣立ち"について

はじめに

これから書く文章は、当然自分が書きたくて書いていますが、反面、ポリシーとしては全く書きたくなく、「苦行」であるとすら思えるものです。言語化することそれ自体が持つ暴力性、言語化したところでたかだか後から見返して"そうだった気がする"程度の感覚を呼び起こすに過ぎないであろうこと。様々な葛藤を感じつつ書く小生の文章ですが……それでも書き表すことで意味を成すと考えて投稿しようと思います。

「小生のキャンペーンに、割り込むなァ──!!!」

ここから書く文章ですが、単に私自身が考えていること感じていることを記したまでであり、いかなる事実や「答え」と言えるような何らかの解釈を示してはいません。小生が「小生のキャンペーン」に割り込まれることを望まないように、私もまた、他人のキャンペーンに割り込むことを望まないからです。

また、色んな作品資料(要するに、シナリオやら広義のドラマCDやら)から必要に応じて引用をして、何らかのわかる形で表記しますが、たぶん正式な形式ではないこと(これは私がそれをやるのが苦手で面倒くさいから)と、どこの何(ブルアカのメインストーリーVol.1の何章のどこどこ~とか)から引用とかは書きません。それ言うたら引用ちゃうやろがい!wと言われそうですが、全くもってその通りです。これも面倒くさいからではありますが、スタンスとして明記したくない、砕いて言ってしまえば、読んで気になった人は勝手に探してくれと思っているからです。あと、そもそも特にちゃんとした本とかからは引用しないと思うのでということもあります。

以上、クソめんどくさい前置き終わり。

「教育」について

まず、私が空崎ヒナさんに対して思っているあれやこれやを適切に感じていただくために、私自身の教育観についてぼんやりながら説明しようと思います。

率直に言えば、私は教育について、ブルーアーカイブで語られているようなことにかなり共感を覚えていると言っていいでしょう。その他様々なゲーム内の要素も当然絡む話ではありますが、このことは、私がブルアカが好きな理由の大きな部分とも言えるでしょう。そして、これは同時に私自身の"先生"への"自己投影"をより強めています。

例えば、ブルアカの大きなテーマである「大人」と「子供」ということについてがあります。偶然ではあるのですが、授業でそんな感じの文章を取り扱ったこともありました。ニール・ポストマンの『子どもはもういない』(1985)という本ですが、自分が読んだ部分についてざっくり言うと、子ども時代なるものが消え、子どもが"大人化"している(させられている)というようなことが書かれています。と言うだけで、いろんな生徒の顔が思い浮かぶんじゃないでしょうか。

まあ、そこはともかくとしても、現実に目を向けてもやれ競争だ、経済だ、学力がどうのと言ってある決まった形(しかもそれは社会に半ば強制的に要請されている)の目的のために早期に子供に対して教育を施す(これは悪いニュアンスで教育という語を使っています。)ことも容易に思い浮かぶと思います。

勢いで書きますが、(製作の中心の)韓国ではおそらく日本よりも強い学歴社会が形成されているように思われますし、その状況がそういうシナリオを書かせていると捉えることも出来るでしょう。

教育の終着点とは?

何気に本筋になるような話は始まっていなかったので、ようやくですが、始めましょう。私にとって、空崎ヒナを語る上で重要なことは、"教育"の終着点はどこにあるのか?ということです。

まず第一に、"教育"の終着点なるものは存在しているのか?という問いを立てなければなりませんが、これに関してははっきりとないと言えるでしょう。単純に、教育が不要になった主体を想定したとき、それは完全性を有したものであると考えられます。つまり、教育が不要となる=神のような存在となることであり、現実的とは考えにくいでしょう。また、可能であると考えたとしても、そのゴール自体が現実的に遠すぎるがために有限な身体において到達することはほぼ不可能と言えるほどに困難でしょう。

では、究極的な教育の終着点ではなく、現実的な区切りについて考えることにしましょう。教育の現実的な区切りについて、我々は少なからず経験してきているはずです。それは、卒業という言葉だったりで表されるものではないでしょうか。例えば小学校を卒業する児童は、小学校において学ぶ学習内容等についてある程度習得し、次の学びの段階に進めるという見なしを受けているはずです。このとき、小学校を卒業した児童は、もはや小学校の先生からの教育を受ける必要はない状態であると言えると思います。

これを言い換え、より一般化させると、"教育の区切り"は、被教育者が教育者が不在の状況でも問題なく生きられることであると言えると思います。さらに短く言えば"被教育者の自立"と言えるでしょう。

キヴォトスにおける教育の区切りはまだ描かれてはいないと思いますが、想定・想像することくらいならば可能でしょう。(と書きながら、"教育"と"学習"は区別付けて書いてもよかったなと思いましたが、まぁ、そこはニュアンスを感じ取ってください)

空崎ヒナについて

ここから空崎ヒナ本人の話をします。こんなことは全くもって無粋で、失礼でしかないということを承知の上で(これもまた「苦行」の一要素でしょう。)、彼女のパーソナルな部分について触れていきます。

空崎ヒナの動機付け

ここでは主に空崎ヒナがどのような動機付けにおいて行動しているかという点で話しましょう。

空崎ヒナは内発的動機づけに乏しい

空崎ヒナは生来(生まれてから「先生」に出会うまでずっと)、キヴォトスの生徒の中でも(主に)内発的動機づけに乏しい子であると私は考えています。特にゲヘナの生徒は思うがままに生きているような子が多いですし、余計に強調される感じがあります。であれば、義務感(Xなどで多く見られた気がする表現なので取り上げます)によって行動しているのか?と言うと、私はそれも少し違うと思います。私の考える空崎ヒナの生まれ持った性質としての動機づけは責任感という方が近いでしょう(まぁ、近い意味ですし、私が微妙にモヤモヤしているだけなのでいいんですが。そこそこにして次に行きます)。彼女は、彼女がそうあるがまま(=生まれ持った性質として。これは全生徒に共通して言え、キヴォトスの「神秘」を考える上で(個人的には最も)重要な要素だと考えています。)に自身の持つ強さを責任感などのもと、発揮していたくらいの感じに考えています。

ある人の特徴を表すとき、多くの人が趣味をあげるでしょう。趣味は、ほとんどの人にとって、内発的動機づけに基づいて楽しむことができる何かしらでしょう。これが彼女の場合は「睡眠、休憩」です。そもそも、それを趣味と呼べるのか?と言いたくなる内容ですし、何なら彼女にとっての「睡眠、休憩」はそもそも絶対量が足りていません。数日寝ないことも多々あり、休憩も「休みなら取ってる、一日に五分くらい」という程度のものです(もちろん、それらの貴重な時間が本当に楽しい可能性も否定はできないでしょう。それでも、最大限の納得を得られても、面倒な責任とかから向き合わなくていい時間として好きとかなのかなと思いますが……。それはそれとして、その趣味を肯定的に捉えた二次創作も見かけましたので、それはなんか嬉しかったです)。また、特別寝具にこだわりがあるとかでもなく、趣味「睡眠、休憩」に対してうまく向き合えているのかが心配になる感じがあります。

ではなぜ、趣味の欄に「睡眠、休憩」と書いたのか?と考えると、ヒナちゃんの可愛げが見えてくるように思います。生徒の中には、趣味の欄に「なし」と書いた生徒が複数、「色々と手を出している最中」、「探している最中」などと書いている子たちがいます。彼女らと比較すると、ヒナちゃんは、「なし」と書くことも、「探している最中」と書くことも出来なかったと言えるでしょう。彼女は、様々な例から結構周りの目を気にしていることが察せられますし、自分が「つまらない人間」で、「可愛げもない」ことも自覚しています。このことから、彼女は、趣味の欄に「なし」と書いてしまえるほどに世間を知らないわけでも、今はないから「探している最中」と書けるほどに現状の自分を肯定もできていないのかなと感じられます。

冷静にここはわりと脱線パートでしたね。まぁいいでしょう。

空崎ヒナの動機付けの変化

そんなヒナさんにも転換点が訪れます。言うまでもなく、「先生」の登場です。「先生」は、簡単に言えば、彼女をとにかくありのままに肯定しました。そして、彼女ははじめこそは中々甘えられなかったものの、段々と「先生」に弱みを見せて甘えてくれるようになりました。

結果、彼女の中でどんどんと、「先生」の存在が大きくなっていくこととなります。例をあげましょう。ヒナ(ドレス)では、「このまま、もっと強くなって、あなたに恩返ししたい。そんな私を、見守ってくれる?」であったり、「先生が私を頼れるように、もっと強くなって、成長したい。これが、今の私が考えている全て。」であったり……。挙げるとキリがありませんが、先日のイベント『陽ひらく彼女たちの小夜曲』では、「(一生懸命、練習をしてきた……)」「(他の誰でもない、あなたの期待に応えるため)」「(だから私は、あなたを想って……)」「……今の自分にできる全力を出すだけ。」と、彼女の行動、それも、私がしたいという内発的動機づけに基づく行動が「先生」というほかでもない他者を前提として成り立っている状態にあると考えています。

空崎ヒナと友達

一方で、先日のイベントでは先生(=教育者)以外の他者との関わりも多く見ることができました。イベントにおいて、「私を助けてくれた風紀委員会のみんなと学園の友達……そして先生のために……そう、素敵な演奏でお返しをしよう。」と書かれる場面があり、これにも彼女の成長を感じられます。

というのも彼女は、私から見れば一番関係が深いようにも思える氷室セナさんとの関係すらも、「友人と呼んでいいかはわからない」と言ってしまうほどでした。そこを経て、「学園の友達」と交流をし、期待に応えようとする姿は胸に来るものがありました。

この「友達」との関係ははじめに述べた、教育者の不在の中でも被教育者が生きる意味を持つ一つの要素になると考えています。

空崎ヒナから先生への感情とは

ここからが私をより苦しめることになります。単純に分けて、恋愛感情と、自分のことを気にかけてくれたことへの感謝の想いというのがあるでしょう。この記事を書き始めるとき、あるいは、頭の中でそんなことを考えている時よりかは、今現時点では、意外にも「恩返し」という言葉に表れるように、感謝の気持ちが大きいように感じています。と、書きつつも、いや、相当に(本人の自覚の有無を問わず)恋愛感情もやっぱり大きいよな...とも思うわけですが......。恩返しの感情を想定よりも強く感じることとなった要因は、彼女の褒められ慣れのなさ、とも言えるものが原因のように思われます。彼女は「可愛い」と言われると結構な照れを見せてくれますが、同じ生徒、鷲見セリナさんにそう言われた時もなかなかの照れ具合を見せています。このことは、彼女の感情が恋愛感情なのか、感謝の想いなのか判断(当然どちらもあるでしょうから、片方に断定するのではありません)することを難しくします。

私の苦しみ

ここからがこの記事のテーマと言えるでしょう

空崎ヒナは"巣立つ"ことが出来るのか?

恋愛感情と感謝、どちらかに重きが置かれていようが、彼女が「先生」という他者に動機づけの主要因を置いていそうなことはかなり明白です。このとき、私がはじめに述べた"教育の終着点"について改めて考えなければなりません。私は教育の終着点について、被教育者が自立することであると述べました。しかし、現状彼女の動機付けの大部分は「先生」の存在を前提にしているため、私にはとてもではないが、やっていけるように思えないのです...。(それでも友達に頼れるようになったりして改善しているとも思うのですが)

次からは、この解決策をあげましょう。

私は「先生」だから

これは私が思うにもっとも悲しく、残酷な解決の仕方のように思います。これまで、数多くの生徒を救ってきた言葉と全く同じ言葉で、生徒を突き放さなければならないのです。現実的に、教育には区切りがつかなければならないでしょう。あるいは、キヴォトスの外から来た先生が帰る時が来るのかもしれません。あるいは、「先生」と「生徒」という関係性そのものが揺らぐのかもしれません。そんな時に、残酷であることを理解しながらも、これを言わねばならないのです。

「責任」は私がとるからね

こちらは、もっとも力に溢れた解決方法でしょう。要するに、ヒナちゃんと結婚してしまえば、「先生」と「生徒」、「教育者」と「被教育者」というジャンルから解き放たれるということです。(そういうこった!)

というか、「支え合うって決めた」関係ってもう結婚してませんか?してますよね。

間違いなく一つの素晴らしい解決策であると私は信じています。

 

おわりに

もう時間がない......。眠いし疲れました。まずここまで読んでくださった方、ありがとうございます。私の文章は根本的に断定を避けに避けまくっているとかいろいろのせいで回りくどいがち(ここでも言い切らない)なのですが、それでも読み進めてくださったことに感謝が止まりません。ここまで読んで結論それかよというのは、思われるかもしれませんが、時間がないとか、まとまらないとか色々の私のミスでした。もっと書けることは全然あるのですが、それでも、私の苦しみの2,3割くらいは(10割はまず書きません)今回の記事でも感じていただけると思います。

 

最後に、遅くなっちゃったけどヒナちゃん誕生日おめでとう!

"優しい"父親と"厳しい"母親(水星の魔女12話感想記事)

水星の魔女12話の感想記事

12話は、簡潔に言うならば、実は優しいだろw感のあったヴィム(グエルパパ)、親バカを隠し切れなくなってきたデリング(ミオリネパパ)、不穏な空気しかなかったプロスペラ(スレッタママ)の三人の親の親子関係が一気に表出した回と言えるだろう。

この記事では親子関係、父親と母親とはというところに焦点を当てたい。

 

プロローグからあった違和感

プロローグの序盤、娘エリクトとテストパイロットの仕事を終えた母エルノラが、父ナディムの待つ家に帰るというシーンがある。ステレオタイプ的に言うならば、母の待つ家に仕事を終えた父が帰るというのがよく見られる場面だろう。

しかし、このシーンでは、全く逆の構造で描かれているばかりか、ナディムはエプロン(女性の行う家事を象徴するもの)まで着ている。ただし、ナディムが専業主夫かというとそうではない(普通に働いており、共働き)ため、余計にこのシーンの演出的な意図が感じられるのではないか。

 

水星の魔女で見られる親子関係

グエルの場合

多くの視聴者が彼に主人公めいたもの感じているように、かなり王道の(親子関係を含む)人間関係の中にある。グエルを厳しく育てる父ヴィムとの関係に悩み、それを克服しようとするエディプスコンプレックス的な欲求が強く見られる(母親的な対象、獲得するものがよくわからないが、トロフィーとしてのミオリネ⇒スレッタという感じだろうか)

12話では、相手を知らないままに、父ヴィムを殺してエディプスコンプレックス歪んだ形で克服してしまった。(そして、手に入れる(「進む」)はずのスレッタもああなっている...)

 

ミオリネの場合

ミオリネの親子関係について考えると、あまり女性らしさを感じないというのが率直な感想として出てくるだろうか。母親の死に関係する出来事から(?)、父デリングを嫌うミオリネは当初、父デリングの影響下から逃げることを目的としていた。しかし、スレッタが現れ「逃げ出すよりも進むことを」選び、株式会社ガンダムの社長としての活躍を見ると、デリングの後を追っているように見える。こうした父を憎み、克服せんとする様は、(典型として)娘というより、むしろ息子という印象すら受ける。

12話に至るまでに、ミオリネの中にデリングへの「許し」(父親として認める)(母親関係のことは別としても)のような感情が生まれていたのが気になるところ。

 

スレッタの場合

スレッタの親子関係は、どう言語化すればいいのか...という感じだ。一つ言えるところは、これまで書いた二組の親子より完成度が高いということだろう。これまでの話でも、プロスペラ・スレッタ親子の間に割って入ることの困難さは度々描かれていたが、今回の12話でより強く、そして絶望的に描かれたと思う。

ここ最近の流行りで、目にする機会も多いと思うのだが、プロスペラのスレッタに対する接し方は、いわゆる、優しさによる、母親的/母性による支配というようなものに映る。

その中で、考えたいのが、「逃げたら一つ、進めば二つ」である。この言葉に導かれるようにして、スレッタは12話Cパートのような行動をとったわけだが、プロスペラはとうの昔に「進んで」今の姿になったと考えていいだろう(だからこそ語り継ぐ)。徹底して目的の達成(=復讐)を目指すプロスペラにとっては、母親の顔も文字通りの仮面でしかない可能性もあるだろう。

 

優しい父親と厳しい母親

三組の親子を見比べると、完全に伝統的な父親像を持つグエル親子、伝統的な父親像のようだが、ミオリネの次第感もなんとなく感じるミオリネ親子、母親による優しい支配のスレッタ親子という形になる。

ここで考えたいのが、伝統的な父親像のヴィムとデリングが本当に優しいのか?ということだ。現実世界を生きる我々にとって、伝統的な父親像はもはや昭和的なもので、現代の価値観ではむしろ前時代的であるとして蔑視すらされるものだろう。

視聴者としての我々にとって、グエルを退学させながらも、子会社にポストを用意するヴィムは「優し」く映るかもしれないが、グエル本人からすれば、自分の選択肢を奪う強権的な父親でしかない。加えて言うならば、視聴者の我々が、プロスペラの不気味な母親像への恐怖から、伝統的な父親像を美化している可能性も十分にある。

 

まとまりはないけどいろいろ書いた(今後気になる点とかも)

今回、親子関係をテーマに挙げたが、メインキャラクターたちの親子関係はなかなかに多様だ。スレッタ(エリクトではないものとする)は父親を知らないままに育ち、グエル・ミオリネは母親未登場と、既に死去、シャディクに至っては、孤児から養子にとられているといった具合である。

父親と母親の本質的で絶対的な違いは、子どもとの肉体的/身体的な繋がりの有無。最近の流行りでいう母親の支配の根拠はここにあるのではないか。わりとテンプレ文だが、「おなかを痛めて産んだ子を...」という具合に、子どもの存在そのものの根幹に当たる「誕生」に携わっていることで、母親は絶対的な権力を発動する。(加えて言えば、乳母などを抜きにすれば、立って歩けるようになるまで乳を与えてやったこともそうだ)子どもは、生まれ育ち、自我が芽生えた時点で、自分自身の存在そのものに「母親」という前提を認めねばならず、生きることに対しての母親への罪悪感(大げさに言えば、原罪)を背負わなければならない。

ミオリネの親子関係について書く中で、ミオリネを「息子」と書いたが、スレッタとミオリネが婿と嫁で入れ替わった関係なのが少し気になるところ。作中でも、地球寮の面々に「正妻」呼びをされて「婿です」と返すシーンがある。

あとがき

久々に公開できる気がするので、ガバガバそうなのも放置して公開しようかなと思っています。そもそもメモみたいなもんなんだから公開すりゃいいのに...ってなるけど、そうなると本当にTwitterとの区別がなくなるとか思ってしまって...。クソ真面目っぽい文はまとめてこっちにぶん投げられるくらいになりたいのは思うんですが、なかなかできませんね。いろいろきしょきしょ話題は思いついたりはするので、やろうとだけは思うのに、ちゃんとやろうとしすぎて悪い意味でタスク化して重荷になるみたいなことを誰にも見えない自分の中だけでやっています。はぁ.........

概念としての「父」と「母」、父はぼんやりわからんではないな...と思うくらいだった一方で、母がなんなのかというのはいまいちピンときてなかったのですが、なんとなく書きなぐったことで少し見えてきたような気もします。

母というのは、(変えようのない?)環境と言うことはできなくはない気がしています

マジで文章を書くたびに死にたくなる~~~

自分の中だけなら最強なのに、社会の中では最弱なので。

ツッコミ、お待ちしています!!!🍅

P.S. セックスだ!(カミーユ)

内野5人シフトを救いたい。

本日3月21日、センバツ高校野球木更津総合×山梨学院戦にて、延長13回裏木更津総合の攻撃、タイブレークにより無死一、二塁で攻撃開始の場面において、守備側の山梨学院により「内野5人シフト」が試みられた。それを受けて、このブログを書きたいと思う。

はじめに~山梨学院の内野5人シフトの新しさ~

”バント阻止のための”内野5人シフト

場面は、前出のように、同点で1点取られればサヨナラ負けという場面だ。守備側の山梨学院は、1点でも取られると負けという場面において、1アウトでランナーが三塁にいる―つまり、スクイズ、エンドラン、犠牲フライ等々、1点を取るための作戦を取りやすい―状況を作らせないように絶対にバントを阻止するための内野5人シフトに踏み切った。

結果としては、木更津総合の3番打者がヒッティングをし、レフトフライとなり、二塁ランナーがタッチアップをしたことで結果的に1アウトでランナーが三塁にいる場面となった。

自分はこのようなバント阻止のための内野5人シフト見たことがなかったため、驚き感動した。そのため、今こうして文章を書いているのである。

 

これまでの内野5人シフト”本塁生還阻止”

今回のものに対し、これまで一般的に「内野5人シフト」と言われて思い浮かべるものを書く。これは、今現在、Twitter上で「内野5人シフト」がトレンド入りしていることで、特に試合を観ていないにもかかわらず、その文字だけに反応している人たちが言っているような「内野5人シフト」のことだ。

上記ツイートのように、原辰徳がやった”アレ”、そして、このツイートの日のオリンピックでの日本×アメリカ戦でのもの、どちらも1アウト二、三塁で試みられた。

この二つの「内野5人シフト」に共通するものは、どちらも三塁ランナーの本塁生還阻止を目的とするものである。

原辰徳のアレはバカにされてもしょうがないと思っているので、触れないが、オリンピックでの内野5人シフトは、今回の山梨学院と同様に同点で1点取られればサヨナラ負けの場面だった。

まとめ

こうして、二種類の「内野5人シフト」を並べると、山梨学院が試みたのは、同点で1点取られればサヨナラ負けの場面において、本塁生還阻止が絶対条件となる1アウトでランナーが三塁にいる場面(これもまた、「内野5人シフト」をとってもいい場面)を作らせないため、より追い詰められた場面にしないために先手を打つ、より攻撃的な「内野5人シフト」だったと言えないだろうか。

 

内野5人シフトにおける”捨て”

野球におけるあらゆるシフトには、目的のためにある程度、打たれた時点で捨てる・諦める打球が存在する。以下に述べるオリンピックの試合でも、打たれた瞬間に外野手が諦めていたのを覚えている方も多いのではないだろうか。

他にも例を挙げると、1点が試合を左右する場面での外野前進守備での長打、あるいは対強打者シフトでは、極端な打ち損じでの単打、極端なことを言えば、ホームランはいかなる場面でも”捨て”の打球と言える。

上記二つの「内野5人シフト」においては、同点で1点取られればサヨナラ負けという場面の苦しさから、”捨て”の打球を増やさざるを得ない。以下より、オリンピックでのケースから順に、”捨て”の打球について考えたい。

オリンピックの内野5人シフトでの”捨て”

オリンピックの内野5人シフトの内野ゴロでの本塁生還阻止という目的、外野手が二人になったことで外野が広く空いている1アウト二、三塁という状況から考えると、ヒット、ホームランを除いた外野手にとっての”捨て”の打球は以下のようになる。

・長打(このケースで結果的に打者が打った)

・外野の正面に来ないヒット性のライナー(ギリギリで捕るようなものを想定)

・タッチアップをホームで刺せない深さのフライ

・刺せるかどうか際どい深さのファールフライ

上記のように”捨て”の打球に「タッチアップをホームで刺せない深さのフライ」が含まれているように、刺せない深さで守っていてもしょうがないため、この場面での外野手は三塁ランナーのタッチアップを刺せるかどうかギリギリの位置デッドラインとして守ると理論的には言える。この基準から外野手の守備位置がなんとなく定まり、同時に真逆と言える”捨てない”打球も見えてくる。

外野手の二人は、自分が立っている位置より後ろはケアせずに済むため、守らなければいけない範囲は必然的に見た目以上に小さくはなり、かつ、フライなどの滞空時間によっては、送球がしやすいように回り込むことも可能だ。

実際には打者によって守備位置を微調整し、二人の外野手でできる限り”捨て”の打球が増えない守備位置をとることになり、そうすると、必然的に中間地点のセンター付近が空きやすくなる

山梨学院の内野5人シフトでの”捨て”

山梨学院のシフトの目的は、特にバント阻止が主な目的であるように見られたが、この目的をより根本的に定義すると、二塁ランナーの1アウト以下での三塁到達と言える。

山梨学院の守備では、内野をバントシフトにしつつ、二人の外野手は、レフトとセンターの位置に守り、空いているのはセンターではなくライトだった。つまり、二塁ランナーが三塁によりタッチアップしやすいライトへの打球は捨てていたということだ。

結果としては、レフトが後退して捕球する打球により、二塁ランナーの三塁到達を許してしまったが、「内野5人シフト」を試みるにあたっての方針は間違っていなかったことのある種の証明として機能しているのではないか。

あの場面において、ヒッティングを選び、そして守備側の想定を上回るような打球を放った木更津総合の打者が素晴らしかったというのがあのプレーを評価するに最も適していると思いたい。

 

ほぼおまけとして~内野5人シフトの根本的な弱点の考察~

極端なシフトのマイナス点として、意図があまりにもはっきりしているため、配球などが読みやすくなることがあると思われる。本塁生還阻止なら、当然フライを打たれないに越したことはないので、低めの投球が増えること。今回の山梨学院のケースでは、ライト方向に打たせないためにインコースの投球が増えることなど。打者の得意コースなどとの兼ね合いでは、極端なシフトを取らないことも選択肢の一つと見るべきなのではないか。

 

おわりに

1000万年ぶりにブログを”公開”しました(途中まで書いてまとまらなくてほっぽったりしたので。)

あと、書き始めたときに思っていたよりも、外野守備要素が多くなりました。

ランナー三塁のケースの”捨て”として、構えている位置より後ろのフライを書いてはいますが、流石に多少なら(当たり前だけど)努力するべきだと思います。圧をかければかけるほど、離塁が早いとかの類のミスも狙えるので、頑張った方がいいです。

色付けたりしましたが、特に意味があったりするわけではないので気にしないでください。読みづらかった、読みやすかった、そういう感想・改善点あればぜひ教えてください。ここまで読んでくださりありがとうございました。おわり。

こんにちは。お久しぶりです。大学とかいうカスに精神と時のキャパを押しつぶされて全く何も書けませんでした。かと言って全然そっちもアレなのでアレですが。

それはさておき、今回書く内容についてですが、前回書いた話数ごとの感想ではなく、「守備のシフト」についての内容になります。私は、外野手なのですが、守備というものが本当に大好きでして、高校球児だった頃はかなり守備に力を入れてやっておりました。引退してからもその点は特に変わらず、2018年春のセンバツ膳所×航空石川戦の録画を残してある、と高校野球部時代の同期に先日話したところ「キモっ」と一蹴されました。そんな感じで守備のシフト、というかなり狭く絞った内容の記事になりますので、個人的な考え方をまとめつつ、球詠読んでるけど野球よくわかんねえよという方に補足、解説になれば嬉しいところです。

 

 

シフトとは?

まずはじめに、この画像をご覧ください。

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一二塁間に野手が4人いますね。このシフトは、1アウト満塁のサヨナラの場面で引っ張りの傾向が強い打者に対して取られたシフトです(画像には映っていませんが、三塁にも1人野手がついています)。このシフトは何のために取られているのでしょう?答えはもちろん勝つためです。この画像の場合は特にサヨナラの場面ですから、1点でも入ってしまえば負けというかなり緊迫した場面です。ここで、シフトとは、勝つための守備の作戦であると、言わせていただきます。

守備の目的

シフトはかなり目で見てわかりやすい守備の作戦ですが、そもそもなぜそんなことをするのか、その目的を確認しましょう。野球の守備の目的は、1イニングなら3つアウトを取ること、1試合通してであればより少ない点に抑えることです。アウトの取り方と言ってもいろいろあり、ゴロやフライには野手が関わりますが、三振を取れば野手は関わってきません。

「じゃあ、全部三振取れればそれでいいんじゃないの?」もちろん、そうなるのが一番といえば一番ですが、そんなことはそうそう起きません。全部三振が取れるのならばフィールド上に野手は9人も要りません。あなたは野手としてフィールドに立つとき、常に打球に備えなければならないのです。

打球に備える

しかし、ここで一つの疑問が出てきます。打球に備えると言っても、どんな打球に備えるのか?という疑問です。この疑問は、前述の「アウトを取る」、「より少ない点に抑える」という二つの視点によって解消することが出来ます。

アウトを取る

まずは、アウトを取るという視点から考えてみましょう。アウトを取るとはどういうことでしょうか、逆を言えば、アウトが取れないとはどういうことでしょうか?そうです、アウトが取れない=ヒットを打たれるということです。さらに言いかえると、野手のいないところ(もしくは野手の手の届かないところ)に打球を打たれるということです。こうなると、守備側のやることは自ずと決まってきます。アウトを取る=ヒットを打たれない=ヒットゾーンを出来る限り狭めるということになります。

次に、野球場の形を思い浮かべて見てください。投げて取らなければいけないピッチャーとキャッチャーを除くとして、このフィールドを7人で守るとしたら、どのように野手を配置すれば良いでしょう。内野は打者に近い分、打球が早く飛んできます。そうなると、なんとなく外野より人数が多く必要な気がしてきました、あとベースとかランナーもある程度面倒を見てやらないといけません。外野は打者から遠いですし、多少少なくても大丈夫でしょう。とは言え、内野に比べたら圧倒的に広いので多少人数は必要なはずです。

上記のことを踏まえると、内野の人数をちょっと多めにして、ヒットゾーンを狭めるために野手を等間隔に配置します。そうすると、見覚えのある形が浮かび上がってきます。そうです!いわゆる、定位置です!守備のシフトと聞くと、どうしても極端なものを思い浮かべてしまいがちですが、定位置もれっきとしたシフトです。打者について何も考えなければ一番ヒットゾーンが狭いので、守備のシフトを取る際の基本の形になります。

しかし、定位置についただけでは、残念ながらアウトが取れない場合があります。先に書いたように、打者はアウトを取られないように出塁することを目的とします。もちろん、全員が全員同じタイプの打者ではなく、打者によって出塁するための方法は異なるからです。例えば、足の速い打者であれば、セーフティーバントをして打球が転がる間に一塁に間に合わせようとしますし、パワーのある打者であれば、外野の頭を超す打球を打とうとします。これらの場合、前者はサードを前に出してセーフティーバントにも対応しやすい位置で守りましょう、後者なら、外野は定位置よりも後ろに下がりましょう、こうして、定位置とは違うシフトが完成しました。

ここでも、また一つ疑問が発生しました。「パワーのあるバッターで後ろに下がったら、外野の前のヒットゾーン広くなんね?」そうですね、広くなります。でも、後ろに下がることには、ある考え方を使うことによって、そのデメリットを補って余りあるメリットが浮かび上がります。その考え方とは、守備の時は常に最悪の事態を想定することです。パワーのある打者での最悪を考えましょう、ホームラン?マジで最悪ですね、でも、さすがにホームランまでとなると守れないので、ホームランキャッチの妄想でもしておいてください、最高ですね。僕も何度もしました。冗談はさておき、パワーのある打者での最悪は長打です。外野の頭を越されてしまえば、2塁、あるいは、3塁、ひょっとするとホームまで一度に行かれてしまいます。しかし、外野が後ろに下がって長打を警戒するシフトを取ればどうでしょう、パワーのある打者の長打のリスクが減り、代わりにポテンヒットなどの単打のリスクは増えましたが、定位置のままで守って長打のリスクが高いままであるより余程マシになりました。このように打者のことを考えて守る場合は最悪の事態=打たれることを想定して守ります。

より少ない点に抑える

続いて、より少ない点に抑えるという視点から考えます。野球では、状況に応じて、先ほどの打者に対してとるシフトではなく、点を防ぐことに特化したシフトを取ります。例えば、0もしくは1アウトランナー三塁の時にとる内野の前進守備です。前進守備では、内野に転がる弱いゴロ、あるいは、攻撃側のサインプレーによるスクイズによる得点を防ぐために内野手が全体的に前に守ります。

しかし、この前進守備には一つの弱点があります。それは、内野が前に出てくることによって、打球が来るまでの時間が短くなり、ヒットゾーンが広がってしまうということです。そのせいでヒットを打たれ、アウトも取れず、また次なる得点のチャンスを与えてしまうことにもなりえます。この弱点は、解消することは出来ません、一方で、このリスクを負う必要のない状況は存在します。その状況とは、一つ挙げると、大量得点差で勝っているという状況です。大量得点差で勝っている状況であれば、目先の1点くらいは無視してもダメージはないですし、それよりも今取れる可能性の高いアウトを取ることの方がずっと価値があります。

また、得点差にゆとりがある状況で得点のリスク(=より先の塁に進まれる)を下げることを考えれば、先述したパワーのある打者に対して、より長打のリスクを下げるために通常よりも後ろに下がって守る(あるいは、長打が来るという意識を強めに持って守る)という選択もとれるようになってきます。

守備で何を優先するのか?

ここまでで、なんとなく守備につく際の基本の考え方を書きました。軽くまとめつつ個人的な考えを述べると、私は守備においての優先度は基本的に状況が最優先になると考えています。考えてみますと、三塁にランナーを置いている場面だとか、一打サヨナラの場面なんかはほとんどの場合で内野前進だとか、外野前進の形をとるわけで、かなり状況を優位に考えてシフトをとっているわけです。さらに言えば、極端なシフトを引いて守ることのあるような打者が打席に立っているとしても、ランナーが塁上にいれば必然的にランナーがいることを考えてシフトをとるはずです。ゲッツーシフトや、バントシフトはその最たる例でしょう。しかし、上にあげたような状況の方が優位になる場面というのはそこまで多くない(特に内野手に比べて外野手は)ので、実際には打席に立つ打者を優先して(状況が存在しないので)シフトを変えるということが多くなるのです。

高校野球の打者へのシフト

先程のパワーのある打者などから少し一歩進んで、具体的に高校野球の打者を思い浮かべていただきます(理由は言うまでもなく、球詠が高校野球の話だからです。後は私のレベルです)。高校野球の打者というのは、プロと比べれば当然、あと、プロに行くような選手などと比べれば、打者のレベルの水準はあまり高くありません。このレベルの高くなさ、(個人的には、洗練されていない、癖が残ったといったように呼んでいます)は大きく守備のシフトに影響してきます。このような打者の癖、具体的には、打球の飛んで来やすい方向、飛んで来にくい方向がなんとなく決まっているということですが、これを守備のシフトに生かさない手はないからです。

球詠でのシフト

ここで(ようやく)例として球詠を参照しましょう。(球詠のブログなのに球詠の話が出てくるのが遅すぎるぞーっ!) 球詠原作2巻第12球、アニメ第6球の対守谷欅台戦での場面です。引っ張り方向の強い打球が多い相手の3・4番打者に対して下記のようにシフトを取りました。

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このシーンでは、原作では画像のように外野はセンターとライトが後ろに下がり、センターはライト寄りに守るという風になっていました。しかし、アニメの方では…

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なんでレフトが下がってんだよ。

私はここで死にました。確かに、3・4番という打順を考えれば、レフトが下がることにも疑問を持たない方は多いかもしれません。しかし、先程書いたように、高校野球の打者のレベルはあまり高くありません。そのため、高校野球のバッターは、かなり実力のあるバッターでない限りはそう逆方向に大きな打球を飛ばすことはありません。そのため、この場合のシフトを私は以下のように考えます。

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これは推測になりますが、原作では、レフトは定位置のままか、もしくは私が考えているのと同じように、センター寄りに守っていたのではないかと思います。原作の描写では、「外野は少し下がろっか」のところで描かれているのはセンターとライトのみですし、この辺りに、レフトは下がっていないというマウンテンプクイチ先生の意図を感じることが出来ます。しかし、アニメでは明らかにレフトも下がっている描写がなされています。どうしてそのままセンターとライトだけを映す構図にしなかったんだ!

さておき、この場合のレフトが左中間寄りにポジショニングをとる根拠ですが、それは、センターが右中間寄りにポジショニングをしたことによって発生した左中間のヒットゾーンを減らすためです。一般的に左バッターのレフト方向への打球はレフト線の方向に切れる(回転によってだんだんとレフト線方向に流れていく)と言われています。このことを考えると、右中間方向に寄って守っているセンターは必然的にセンター定位置よりレフト側の打球に対しては追う形(=切れていく打球に逃げられる形)になり、捕球する難易度は通常の打球よりも高くなります。しかし、打球が近づいてきてくれる側に守っているレフトを左中間に寄せることである程度レフトに任せられるようになり、カバーが効くようになります。

また、レフトが左中間に寄ってもいい根拠として、バッターが引っ張り傾向であることがあります。打者のレベルが高くない分、流し打ちまで器用にできるわけではないとした場合、打者の打球の飛びやすい方向は、センターが右中間に寄ったのに沿うようにして、全体的にライト方向に寄っていると考えられます。その場合、レフト線方向(=レフトよりレフト線側への打球)は飛んでこないと考えて切り捨てられます。この時、レフト線方向の打球であれば、仮に飛んで来たとしてもダメージは少ない(=打球があまり強くなく、単打で抑えられる。または、長打になるような打球でも、三塁が近いため三塁打の可能性は低い)ことも重要です。

最後に

ここまで守備についていろいろ書きましたが、あくまで守備は勝つための作戦の一つに過ぎないという認識は非常に大切です。というのも、たくさん点を取る自信があるならば、アウトを取ることを一番に考えて守ってもいいし、逆にそれがないならば、意地でも点をやらないような守り方が求められます。

書きたいことがまだ微妙に残っているのですが、球詠最終話の放送時間が迫っているので、それはまた次に回したいと思います。

アニメ球詠1話感想

こんにちは。暇だし、モチベもそれなりにあったので、1話から感想記事を書いていくことにします。感想と言いましても、原作ファンとしてのアニメ球詠に対する思いを知ってもらいたいというエゴから、原作ファンという立場から見たアニメ球詠の感想を書いていくスタイルでいきます。そのエゴを達成していく中で、初回の記事で申し上げたように、アニメで初めて見た方に向けて、原作を読め!という目的も達成出来れば幸いです。なお、このブログでの感想・意見等は全て、私個人の意見ですので、原作ファンの総意ではないことを念頭に置いてください。また、アニメと原作の変更点等を紹介する際に、アニメ・原作のネタバレを含みますことをご了承ください。

 

 

概要~各話スタッフ・あらすじ~

※私はスタッフに関しての知識はあまりないので、メモ書きくらいの認識で見てください。

まず、第1話ですが、さすがに1話というだけあって、制作スタッフもメインスタッフである、監督の福島利規さんが絵コンテ、シリーズ構成の待田堂子さんが脚本を務めており、気合が入っているな、と感じられます。

1話制作スタッフ(抜粋)

脚本 待田堂子

絵コンテ 福島利規           

 続いてあらすじですが、原作の1話をアニメでは丸々一話使って描いています。幼なじみの詠深と珠姫が高校で再会を果たし、久しぶりのキャッチボールを通して、それぞれの"辛かった3年間"を、詠深は魔球を捕ってくれるキャッチャーを得ることで、珠姫は魔球を捕れるようになった自分をもって肯定し、子供の頃の「もし硬球でも(魔球を)投げられたら大人になっても一緒に野球しようか」という約束を果たすように前進する、というのが話の肝となっています。

原作からの変更点

・甲子園(みたいな)球場での野球シーンの追加

原作(既刊7巻+連載5話時点)にはないシーンです。甲子園のような球場で、原作には未登場の福井航空*1というオリックスバファローズ*2の選手名をモデルにした名が連なるチームと対戦する姿が描かれています。

このシーンはアニメ2話で削られた原作2話冒頭の球詠世界の野球が説明されるシーンに相当する、と捉えることもできるわけですが、回想としての要素が強すぎる(これは原作組も同じ意見だと思います)のと、説明がないことから、あまり意味はなしていないのかなと思います。

まぁ、説明シーンとしての意味はないよというだけで、製作陣からすれば自信のあるであろう野球シーン(1話の内容では少ない)を比較的動きの派手なゲッツーというプレーを使ってまず見せて、作品に引き込む役割を果たしているというくらいの認識です。

・キャッチボールを誘うのが詠深から芳乃に変更

この変更はとてもいいと思います、というのも、高校で野球をやるつもりのない詠深がわざわざキャッチボールに誘うよりも、その時点では一番野球への情熱があり、かつ押しの強い芳乃が誘う方が自然な流れになるからです。このシーンは脚本の仕事ぶりが伺えるシーンだと思います。

・グラウンドの外から詠深たちを眺める怜先輩と理沙先輩のカットが追加

まぁ、これは後々怜先輩が入学式の日に4人がキャッチボールしているのを見てたというセリフに繋げるためのカットなので特にですね。

 

・体育倉庫

原作ではグローブをしまうケースに「体育倉庫」と書いてあって、私物ではないのがわかります、細かいですが。アニメで「いや、グローブどっから出てきたんだよ」ってなった方はこれですっきりしてください。

体育倉庫と書かれたカゴ

グローブを入れてあるカゴに体育倉庫と書かれている

マウンテンプクイチ 『球詠』1巻 37pより引用

 

感想

1話は良かったと思います。PVで「ねぇ、約束覚えてる?」というキーワードを強く打ち出してきた中で、しっかりとそこに焦点を当てて回収しました。

www.youtube.com

テンポについて

今この記事を書いている段階で4話までの放映が終わっており、この時点で初めから心配だった、そもそも原作でキリのいいところまでの内容をやり切れるのか、その達成にあたってアニメとしてのテンポはどうか、という不安が既に的中してしまっています。ですが、1話に関しては、著しくテンポが悪い、無駄だというシーンはなかったように思います(いや、入学式の校長の話は地味に長いから切れ)。

というのは、1話なのでまぁ多少ゆっくりになっても話の根本である詠深と珠姫の二人の物語をしっかりと描き切り、キリのいいところで終わる、ということで問題ないのかなと。

加えて、冒頭での甲子園みたいな球場での野球シーンですが、前述したように、導入の役割なのでこれについても特に問題はないと思います。原作の1話が「話」重視で書かれていると考えると、アニメの1話では、「話」重視で書かれた原作の1話に合わせながら、アニメの強みである「動き」を見せられるようにシーンを追加する、というのはいたって妥当な判断だと言えるでしょう。

あとがき

と、いうことで、2本目の記事となる感想記事を書きました。書き終わって思っていることは、1話なんてそんなに書くことないやろ~とヘラヘラしていたら、思いの外分量が増えた、ということです(これは情報量を多めにまとめたいという筆者の性質が大きく影響しています)。

私は、ブログはド初心者なので、試しにいろいろやってみようということで、画像の引用なんかもやってみました。めんどくさかったですね、文章の右寄せでなぜかHTML編集を使わされました(といってもコピペですが)。

まぁとにかくこの調子で慣れていって更新ペースを上げて放送に追いつきたいと思います。では。

 

*1:福井航空 石川県の日本航空石川という高校がモデル。同校は近年よく甲子園に出場する。

*2:オリックスバファローズ 大阪に本拠地を置く日本プロ野球のチーム。立花理香さんの旦那の若月健矢選手が在籍することで有名(?)。ちなみに、若月選手は埼玉県の花咲徳栄高校出身。

「女子野球」ではない、『球詠』の世界観

 

はじめに

はじめまして。この度、『球詠』を応援する記事を書こうと、ブログを開設いたしました。当面は、アニメで初めて見るよ、という方に向けた内容で書いていくつもりですので、二ヶ月半ほど、お付き合いくださると嬉しいです。

球詠の世界観

早速ですが、タイトルにもある通りの話です。世界観?何の話?と思われる方も多いと思いますが、はじめに言います、『球詠』は現実の高校野球をそのまま女子に置き換えた作品です。(なんなら、恐らく『球詠』の世界には男子がいない説が濃厚です。新越谷高校の生徒、球場の観客、街行く人、皆女性です。)

 

これについては、原作の第2話冒頭で、"野球大国日本、高校野球においては、球女たちは四千校余りの頂点を目指す"という説明によって女子の野球が高度に発達した世界であることが語られています。しかし、アニメ第3話までの時点では、設定を想像させる細かい要素こそ登場しているものの、しっかりとした説明は省かれています。

この説明が省かれたことにより、昨年放送された『八月のシンデレラナイン』(以下、ハチナイ)と同系列の「女子野球」を描いた作品として見られ、『球詠』の作品の魅力が伝わらないまま、同じようなやつならいいや(まぁ、これは作画の面も含めてなのはわかってるんですけど...)と視聴を切る方がTwitter上でも多く見られました。このことが、今回僕がブログを書くきっかけになったのは言うまでもありません。 

なぜいわゆる「女子野球」ではないのか

 ここでは、作品中の世界観ではなく、『球詠』が作品として置かれた文脈の話になります。

「女子野球」がフィクションの世界で語られる際は、男子との対比の中で女子が野球をする姿が描かれます。体力面での壁、かくあるべしというジェンダーの壁、制度の壁などをもって、女子が女子として野球をする意義を見出していくという面があります。

過去の"女子が野球をする"アニメでは、『ハチナイ』は主人公の有原翼が女子であることが原因となって野球を諦めかけていたり、『大正野球娘。』では、小笠原晶子が女は...と言われて見返すために、『プリンセスナイン』では、女子が甲子園に出場するために野球をする姿が描かれます。

リアリティを削いで生まれる"リアリティ"

 球詠の世界観のところで括弧書きにしたのですが、球詠の作品世界には恐らく男子がいません。これにより、「女子がこんなに飛ばせないだろw」といった女子の身体能力面での縛りから解き放つことができます。

また、球詠では、正確な球速の表示がされていません(あったらすまん)。これにより、球詠の女子野球ファンタジーワールドと現実との隔たりをより大きいものにし、球詠世界において野球のリアリティを保証することが可能になります。

【加筆 2020/4/25】これに加えて、球詠世界の高校野球では、7イニング制が採用されています。現実の女子高校硬式野球でも、7イニング制が採用されているようで、この設定に関しては、割と現実に寄せた設定となっており、マウンテンプクイチ先生のバランス感覚の良さが感じられて好きです。また、この設定を採用するメリットとしては、漫画のテンポの向上でしょう。他の(男子の)高校野球漫画と比較すると、他の漫画が現実の高校野球に則して9イニングをしっかりと描かなければならないのに対し、球詠では、独自の世界観の中で説得力を持ったまま7イニングで1試合を終わらせ、テンポを向上させられるわけです。【加筆終わり】

球詠という作品の魅力はなんといってもかわいい女の子たちがリアルな野球を真剣にやる姿です。これは、女子がやる野球を男子との対比の中で描かず、球詠の作品世界を丁寧に作り上げたことによって、野球というスポーツの魅力を描写することに力を注ぐことが出来たからなわけです。

おわりに

つい先程、アニメ球詠の第4話が放送されました。先行上映があった1~3話までとは違って、原作勢も完全に初見と初めての回だったわけですが、試合が始まれば野球の作画は比較的耐えてるし、持ち直せるかもしれない、という原作ファンの期待を今までとはまた違った形で裏切るクソテンポとクソ脚本の回だったわけであります(もちろん、巻かないとキリのいい所までアニメで収まらないという事情は汲みます)。このブログも3話終了後になんとなく書き始め、まぁめんどかったら公開しなくてもいいやなんて思いながら書いていましたが、4話を見て、居ても立っても居られなくなって急ピッチで仕上げ、公開しました。

あまりに押しが強すぎて原作ファンめんどくせーとなるのもつらいところなので、葛藤はありますが、最後にこれだけ言わせてください!原作読んでくれ!1~7巻まで発売中!

(アニメではおそらく6巻までの内容をやります)

文字しかない記事で読みづらかったかと思いますが、最後まで読んでくれてありがとう!また記事を書くかはわかりませんが、Twitterでぐちゃぐちゃ言ってると思うので、気が向いたら見てください。コメントとか、ここ直した方がいいよとかあったらぜひください、次書くモチベが生まれるような気がします。では。

 

【2020/4/25分の加筆について】書き忘れていたので追加しました。次回以降での記事で補足してもいいかなとも思ったのですが、出来る限り同一の記事内で完結させたいと思ったので。